ホラ吹き太郎からの手紙【エトセトラな番外編
※ここは、ホラ吹き太郎の徒然なる戯言を書いたコーナーです。
第一弾は、やはり演劇について書きたいのですが、私の話よりも数段面白いお話をある方より伺ったので、
その方のお話を元に書き進めたいと思います。有り難いことに、「このコーナーで書かせていただいても宜しいですか?」と、お尋ねしたところ。「どうぞホラ吹き太郎さんのお好きなようにお書き下さい。」と快諾を得ました。
なんとお心の広い方なのでしょう!と言う訳で、正々堂々と書かせていただきます。では、その方とは?と申しますと、ここ40年間の日本演劇史を紐解いた時、欠かすことの出来ない方です。
九州は福岡県柳川市のご出身で、九州大学をご卒業後、
東京の紀伊国屋にお勤めになられた方で、劇団ドリームカンパニーの東京公演の際には多大なるお力添えを頂いている方…。はい、ドリーム・マニアの方なら、もうお分かりですね。そう!柳義男先生です!私と柳先生の馴れ初めは
数年前の「ホラ吹き太郎からの手紙」にも書いておりますので、そちらをご参照下さい。
私が、書籍とか新聞でしか得られなかった情報を、オン・タイムでご経験なさった方ですから伺うお話の面白さと 
言ったらブラボーなものばかりで、とても興味深い話ばかりでした。とにかく“誰よりも芝居好き”な方です。
紀伊国屋ホールの支配人を勤められた後、紀伊国屋サザンシアターの初代支配人を勤め上げられ、その後は日本大学や多方面でその豊富なご経験と知識でご活動なさっています。参考までに、柳先生のプロフィールを添えておきます。
さぁ、では柳先生から伺ったエピソードをお話しましょう!
まずは、俳優の渥美清さんとの友情話からです。渥美清さんと言ったら、日本を代表する大俳優ですが、映画、芝居好きだった渥美清さんは、新宿に出かけると、「紀伊国屋ホール」でプロデューサーをなさっていた柳先生から新しい演劇界の動きを“取材”していらっしゃったそうです。柳先生によると、渥美さんとは1970年ごろ、作家の井上ひさし先生に紹介されたそうです。井上先生と渥美さんは、浅草フランス座時代の知り合いだったそうです。
柳先生がプロデューサーをなさっていた紀伊国屋ホールは、当時から『演劇の甲子園』と呼ばれ、新人作家の憧れの的でした。それで渥美さんも興味をもたれたのか、新宿で映画館をはしごする間に、少しでも時間が出来ると、いつも決まって柳先生に、「今、ちょっといい?」と仕事場に電話がかかってきて、近くの喫茶店で話し込んでは、
「柳さんが、今、一番面白いと思う役者は誰なの?」と熱心に訊かれたそうです。
映画館をはしごする間だから、時間は途切れ途切れだったそうですが、それでも一日に何回も電話がかかってきては、
お話をされたそうです。渥美さんは、日本を代表する大俳優でありながら、『今』を知ろうとすごく努力された方なのだなと思いますよね。
紀伊国屋ホールの公演にも、よくお見えになって、特につかこうへい先生の『熱海殺人事件』がお気に入りだったそうです。そして、「つかさんの舞台は、素人みたいだって言われるけど、僕らの方がよっぽど素人かもしれないね。」と、しきりに感心なさっていたそうです。「大スターが、若い役者さんたちから何かを学び取ろうとしていたんだ。」
柳先生は、そう語ってくださいました。芝居を志している私たちにとっても、とても教えられるお話でした。
感慨に耽っている私に柳先生は語り続けられました。
「国民的俳優と私では立場に大きな隔たりがあったけど、常に『新しい芝居は何か』を追い求めていた点で、お互いに心の琴線に触れる付き合いが出来た。渥美さんの死が発表された1996年8月7日は、新宿南口に完成した紀伊国屋サザンシアターのお披露目会の日だった。私は突然の訃報に驚くと同時に、『これで、明日の新聞は渥美さんの記事で埋まってしまうな。』という思いも頭をよぎった。でも、私が初代支配人を務める新しい劇場が誕生した日に、
渥美さんの死を知るなんて、縁の深さを感じて不思議な気持ちになったよ。」そう、語ってくださいました。
劇場は人が集まる場所です。良い出会いも、悲しい別れも、素敵な想い出として、そっくりそのまま包み込んでくれる。たしか「ムーミン」の作者であるトーべ・ヤンソンの言葉だったと思いますが、劇場ってどんな場所なの?と 
問われた際に、こう答えたそうです。
「劇場は、世界で一番素敵なお家なのだよ。誰かになりたいと頑張っている人が、その人物になれる場所だし、   
そこに来た人がみんな幸せな気持ちになったり、色々な人生を体験できたりする場所なのだから。」
劇場って空間は、やはり良いですね。さぁ、何かが始まるぞって期待感に満ち溢れています。      
そう言えば、私が柳先生に初めてお会いしたのも、紀伊国屋サザンシアター、劇場でした。


柳  義男氏 略歴

「これまでの仕事」         平成2011日現在

―紀伊國屋ホール側スタッフとて以下の主催、提携公演に関わる―

1969(S44) 第一回紀紀伊國屋公演、安部公房作・演出「棒になった男」

   (芥川比呂志、井川比佐志、市原悦子、岩崎加根子、吉田日出子)

1970(S45) 第二回紀伊國屋演劇公演、パントマイム「道化とコンサート」

  (ピエール・ビラン、イレーヌ・ステバス)

1972(S47) 第四回紀伊國屋演劇公演、飯沢匡作・演出「騒がしい子守唄」

   (黒柳徹子、加藤武 他)

1973(S48) 第五回紀伊國屋演劇公演、井上ひさし作・熊倉一雄演出

   「珍訳聖書」(熊倉一雄、山田康雄、平井道子、他)

―以降第八回紀伊國屋演劇公演、M・ウエラー作「旅立ち」まで―

1976(S51)つかこうへい紀伊國屋ホール初登場「熱海殺人事件」

   (加藤健一、平田満、三浦洋一、井上加奈子)

 (〃6〜7月)「ストリッパー物語・惜別篇、火の鳥篇」「熱海殺人事件」

   の三作、53連続ステージ上演。

  (11)つかこうへい「熱海殺人事件」好評につき連続上演。―以降1982年まで、毎年4月「春です、つかです、熱海です」のキャッチフレーズで、上京した女子大生必見の名物として、昭和57年まで上 演。―

1980(S55)つかこうへい三部作「いつも心に太陽を」、「熱海殺人事件」、「蒲田行進曲」68ステージ 連続上演。

1981(S56)野田秀樹「少年狩り」(伊藤蘭主演)紀伊國屋ホール初登場。

1982(S57)つかこうへい「蒲田行進曲」(風間杜夫、平田満、柄本明、石丸謙二郎、他)75ステージ・休演日なし連続上演―松竹映画化・大ヒットする―

1985(S60)鴻上尚史「朝日のような夕日をつれて」紀伊國屋ホール初登場。

1996(H8)公文協関東甲信越大会で「演劇企画とその展開」講演。

1998(H10)九州大学文学部市民公開特別講座「夢・現代演劇の」講演。

1999(H11)古賀市ヒューマンカレッジ「衝撃のつかこうへいデヴュー」講演。

2000(H12)玉川大学芸術学科にて、永六輔さんと特別講演。

2002(H14)紀伊國屋サザンシアター定年退職。

2003(H15)上の活動で紀伊國屋ホールとして第51回菊池寛賞受賞

「略歴及び職歴」

1940(S15)福岡県生まれ。                       

1965(S40)九州大学文学部国語国文学科卒業。

〃    紀伊國屋書店入社。

1969(S44)紀伊國屋ホールスタッフ。

1996(H8)紀伊國屋サザンシアター 初代支配人。

1997(H9)玉川大学芸術学科特別講師。

〃   厚木市 文化会館・理事・運営委員 3期勤める。

2002(H14)62歳で紀伊國屋サザンシアター定年退職。

―以上33年の劇場人生活―

「現在の仕事」

2002(H14)東京アナウンス学院、日大芸術学部非常勤講師。(H19.3月まで)

2004(H16)聖学院大学人文学部、日本文化学科 〃。

2002(H14)北区 つかこうへい劇団顧問。

〃     〃  オーディション審査委員(15年間)

―つか劇団全オーディションで審査委員勤める(30年間)―

2007(H17.9)日本大学公開講座講師。

―その他、いくつかの演劇賞より投票委員など委嘱されている―